結論から言います。
もう、「新鮮小説」(コスミック)に、霧原の作品を載せるのはやめます。もともと問題のある雑誌だった。
編集長から、再録ものの官能雑誌を創刊したいから、霧原の作品をと請われ、彼とはいろいろと仕事をしてきたし、再録だったらいいですよと承諾した。
しかし、出来上がってきた「新鮮小説」を見て、驚き、呆れた。
あまりにも、「特選小説」にそっくりだったからだ。
これほどまでに、他誌をぱくった雑誌に、自分の作品が巻頭で掲載されていることが、恥ずかしかった。
唯一違うのは、再録ものであることだ。
しかし、その号には再録の初出というか、おさめられていた本さえ記載されていなかった。これは詐欺っぽいな、まずいなと思った。
思えば、あのとき、降りるべきだった。
あまりの酷似がいたたまれず、せめて「文字が大きくて読みやすい」という表紙の赤文字を取ってくれないと(つまり、特選小説のもろぱくりであるから)、もう作品は載せられないと言ったこともある。
しかし、昨日送られてきた「新鮮小説、創刊号」を読んで、これは降りようと思った。
3人の書き下ろしが掲載されていたからだ。
びっくりした。再録ものというコンセプトが変わっている。
しかも、書いているのは、「特選小説」で活躍している作家ばかりである。新しい作家に書いてもらうのならわかる、
だが、これでは、「特選」とうり二つではないか。「新鮮」のオリジナリティはどこにあるのか?
だいたい、この会社は、作家の短編集を文庫で出す際、そのほとんどが「特選」に掲載されたものを使っていた。
その段階で、「特選」には恩があるだろう。
よくも、こういう裏切りができるものだ。
雑誌を立ち上げるのは、独自のコンセプトを捻出したりと、本来ならすごく大変な作業であるべきだ。作家だって、毎回、何もないところから作り上げているのだ。
しかし、それを放棄して、ひたすら模倣することで創造の苦しみを回避している、そんな雑誌には霧原の作品はもう載せられない。
「新鮮」から、書き下ろしを頼まれて、「特選」のことを考え、またその安直な編集方針を嫌って、依頼を断った作家を何人も知っている。
同じ思いを抱いているのは、私だけではないということだ。
同時に、この雑誌に書き下ろしを寄稿した作家たちの、作家としての矜持も理解しているつもりだ。
作品をひとつでも多くの場で発表し、プロとして生活していくのが、作家であるからだ。
彼らと私の選択は違うが、作家としての誇りと痛みは同じところにある。